迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第5章・第28節)~

2019.02.05

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初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第28回は、第5章「行持報恩」の第28節について。
honbun第28節 「一句の恩尚お報謝すべし、一法の恩尚お報謝いっく おんな  ほうしゃ     いっぽう おんな ほうしゃすべし

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

『修証義』も残すところあとわずか。
ここまでくると、なかなかに『修証義』ファンになりつつある門外漢の中年ライターなのですが、この節ではかなりフレッシュな印象を感じることとなりました。
言っていることはまたもやいたってシンプル。
仏の教えに感謝し、恩に報いましょう。これだけです。でも、フレッシュなのです。

この節を読んで私が真っ先に感じたのは、『修証義』の原型を執筆した大内青巒おおうちせいらんという人の、心からの喜びの気持ちです。
どういうことかを説明するためには、はなはだ今更感が満載ではあるのですが、『修証義』の成立などに少し触れる必要があります。
ここまで触れてこなかったことのほうが問題かもしれませんが……。

『修証義』の成立は明治23年(1890年)。道元禅師が遺した約100巻にも及ぶ仏教書『正法眼蔵』をベースに、仏の教えを在家信者にもわかりやすい言葉を使って明治21年に編集された『洞上在家修証義』がもとになっており、それを書いたのが大内青巒だったのです。布教活動が目的であったこのテキストに、当時の両大本山からの校正が入り、現在の『修証義』となりました。

曹洞宗のメインテキストである『正法眼蔵』は、その難解さからか、修行・坐禅を実践することを大事にするあまりからか、500年以上も各地の曹洞宗寺院に秘蔵され、一般の人の目には触れなかったのだとか。
明治期に入って身分制度から解放され、多くの人たちが個々にその幸せを模索した時代になって、『正法眼蔵』はそのニーズに応えるように『修証義』として再登場したといえるのかもしれません。

『洞上在家修証義』の編者である大内青巒は、この節の冒頭から末尾まで、延々と仏の教えに感謝し、恩に報いましょうと繰り返しています。これは間違いなく喜びの表現です。
道元禅師は鎌倉初期の人ですから、いわば歴史上の人物。大内青巒の生きた時代とは600年の隔たりがあります。仏教誕生から数えれば、2400年以上。その長い時間を旅した思想は、その間に生きた人たちの叡智や、経典を守るために尽力した人たちの努力を糧にして、目の前に『正法眼蔵』として現存している。

言葉、文字というのはタイムマシンのようなものだ、と思っています。思想を言葉に換え、文字として残すことができれば、時空を超えて後世に伝えることができます。この仕組みは、観念的にはもうタイムマシンです。
大内青巒は、目の前にあるタイムマシンの美しさに酔いしれ、よくぞ私の目の前に現れてくれた、と感動したのではないか、そう感じたのです。
『修証義』を書くために、この『正法眼蔵』を読めば読むほど、理解して傾倒すればするほど、疑問にぶつかってその答えが得られるたびに、嬉しさがこみ上げてきたのでしょう。

タイトルとして切り出されている報謝は、現代語風にいうところの「報恩」ですが、その実践は難しいものだと思われます。よくしてもらったら「ありがとう」を言いなさい、というのは幼い頃から親に言われてきたことです。そういう即時の対応は想像がつきますし、実践も可能です。
しかし恩を受けてから時間が経った後のことだったり、恩自体がわかりやすいものではないときなどは、その恩に報いる行為をしようと思い立つこと自体、おっくうです。
ましてや、ここでいわれている恩は、仏の教えが説かれたこと、それを先人たちが教え伝えてきたこと、そういうことに恩を感じなさいといっています。
これは、ずいぶんと難しいことだと言ってしまってもいいのではないかと思います。
でも、そういうことはすっ飛ばして、生理的に嬉しいのだから、感謝の念しか浮かばない。
人間大内青巒はそう感じたのではないでしょうか。
ここへきてフレッシュな印象を得たというのは、つまり、そういう生々しさゆえなのです。

 

■禅僧がライターへこう応えました

ロイさんこんにちは。

さて、『修証義』「第五章 行持報恩」の第28節について、『洞上在家修証義』の編者とされる大内青巒居士の感動を見抜くというのは、読み方として非常に興味深いところです。青巒居士が確立しようとした「本証妙修の四大原則(後の「四大綱領」)」は、前半の第二章・第三章を「本証」といい、これは歴代の仏祖が正しく受け嗣いできた菩薩戒を受けることで、『梵網経』に見える一節の「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る」ことを信受して、自ら仏の仲間入りをした安心を得るものです。
一方で後半の第四章・第五章は「妙修」とされ、既に本証の安心を得られたことを仏祖に感謝し、それを世の人々にも広めていきましょう、という実践を促すものです。
つまり、お気付きいただいた感動とは、仏祖の仲間入りをするチャンスが、ちゃんと伝統的な仏教の行事の中に生きていたことに気付いたものだともいえるのです。

青巒居士は、明治12年に通仏教(特定の宗派に依拠しないこと)の組織である「和敬会」を作ります。そして、その会は江戸時代の真言宗僧侶である慈雲尊者飲光の考え方を重視し、人々の生活に「四恩十善」を取り入れるべきだと主張しました。「四恩」は様々な解釈がありますが、「母・父・如来・説法師」(『正法念処経』)などが知られ、これらの対象に恩を感じるように促しています。
また、「十善」とは「十善戒」と呼ばれるもので、我々の身体・口(言葉)・意識(考え)の3つ(三業)において、10種類の良いことをしようという教えです。身体は3つで「殺さない・盗まない・不倫やわいせつ行為をしない」です。口(言葉)は4つで「誤ったことをいわない・飾った言葉を使わない・悪口を言わない・二枚舌にならない」です。最後に意識(考え)は3つで「むさぼらない・怒らない・愚かな考えを持たない」になります。

つまり、青巒居士は明治期に入り、様々な宗派の方と付き合うようになり、仏教の本質を「恩」と「戒」とに定めたのです。これを『修証義』にあてはめると、「恩」とは「第五章行持報恩」となり、「戒」は「第三章受戒入位」となります。「第四章発願利生」と「第二章懺悔滅罪」は、それぞれ第五章・第三章が成立する前段階とでもいえましょう。
よって、青巒居士は、当時の通仏教の観念を、言葉を換えて曹洞宗に持ち込むことで、宗派は違えど仏教を信じる人々を同じ「仏教徒」として一纏め(エキュメニカル)にしようとしたのだと思うのです。

曹洞宗内では毀誉褒貶の多い青巒居士ですが、激動の明治期に仏教の教化に尽力した大人物でしたし、その人の感動を、今回の記事で共感していただいたことは、とてもありがたく思えるものです。

 

~ 「迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた」バックナンバー ~

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