迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第5章・第30節)~

2019.03.27

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初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第30回は、第5章「行持報恩」の第30節について。
honbun第30節 「光陰は矢よりも迅こういん や    すみやかなり」

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

おなじみの「光陰矢の如し」を引いたかたちで始まるこの節、内容はといえば「人生は一瞬で過ぎ去る儚いものだから、無意味に生きぬように」ということを説いています。
無為に過ごす100年は形骸的な一生であり、たとえ1日でも道理に従った(仏の教えに即した)時間を過ごせれば、それで大いに仏に至ることができると続きます。

この節を読んで、実はうーんと悩んでしまいました。大げさではなく、数週間もの間考え込んでしまったのです。
それは「日課」についてです。
たった1日でいいから正しい道理に従った生活をせよ、と優しげに聞こえる教えなのですが、本当にその道理を身に染みさせるためには、間違いなく「毎日のこととして」その道理を実践しなくてはいけないはずです。つまりは「日課」です。
周囲のために何が良いことなのかを考え、広い視野を持ち、生命を慈しみ、時間を自分のためだけに浪費しないこと。ここまで『修証義』で語られてきた諸々のことを借り物ではなく自分のこととして実践する、そういう大変難しいことをさりげなく求められているわけです。
もちろん、一発で実践できるわけはありません。今日はこんなところが至らなかった、今日は思わずこんなことをしてしまった、そういう後悔と再度のトライとで時間は過ぎていくのでしょう。
これを「日課」として実践し続けることこそ、凄まじく大変なことだなあ、と思い悩んでいたのです。

これはあくまでも持論なのですが、「義務」と「趣味」以外の日課というものを、人間は持ち続けることはできないのではないか、と考えています。
会社勤めであれば、毎日起きる時間や乗る電車が決まっている方も多いことでしょう。これは間違いなく「義務」の範疇です。健康のために毎朝5キロの散歩をする、というようなものは、健康のためにという出発点はありながらも、楽しいから、気持ちがいいからという気持ちが動機となる「趣味」の範疇でしょう。

あ、ちょっと面倒な説明が続きましたね。
何が言いたかったかといえば、自分が考えて自分で決めた「日課」というものは、それをしなければ誰かの迷惑になったりルールから逸脱して社会生活が困難になる、そういう「義務」。あるいは、楽しいから気持ちがいいからという理由で続けることのできる「趣味」。このどちらかの側面があるのではないか、ということです。
だとすれば、自律的に正しい道理に沿って生きることを「日課」として自分に課すということは、どれだけ大変なことか。
もしかしたら、そこに「信じる」という能動的な心の変化がない限り、続けることは無理なのではないか、ということなのです。
仏の教えが正しいとはわかっていても、それを実践するときには大いに困難が立ちはだかります。ここにある障害、壁のことを、迷える中年ライターは勝手に「信心の壁」と名付けています。またもやここにそんな壁がそそり立っている。そう感じてしまったのです。

身勝手な解釈をすれば、つまりはすぐ手前まで来られたともいえます。いずれにしても、今現在の私は、大いに思い悩んでいるのです。

 

■禅僧がライターへこう応えました

この一節では、「一日」という言葉が、非常に深い意味を担っています。
ロイさんは、この「一日」から、「日課」ということに着眼し、それを「義務」と「趣味」とに二分しながら、「自立的に正しい道理に沿って生きること」を「日課」とすることの難しさを感じ、それを「信心の壁」と表現されました。
この第三十節では、「一日」に込められた意味は、「光陰は矢よりも迅やかなり」に始まるように、月日、時間の過ぎ去ることが早いこと、そして、「何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる」とあるように、失われる時間、「一日」は、二度と取り戻すことは出来ないということを説くことにあります。「縁起する時間」、「諸行無常」に基づく「無常観」と表現できるでしょう。
つまり、失われゆく、不可逆的な時としての「一日」であるからこそ、掛け替えのない、大切なものであり、そうであればこそ、この「一日」を如何に生きるべきかが、自ずと、自らに問われなければならないです。この様に理解する時、「義務」や「趣味」よりも、自ずと「自立的に正しい道理に沿って生きること」が選ばれ、「信心の壁」も解体されるのではないでしょうか?
そして、無常というものが、痛切に、深く理解され、幸いにして私たちが生かされているということに気づき、如何に生きるべきかを問いかけ始めている方にとっては、「此一日の身命は尊ぶべき身命なり」という一節の意味が、深く理解されるのではないでしょうか?

 

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