【連続インタビュー】仏教の社会的役割を 捉え直す③


前回からスタートした連続インタビュー「仏教の社会的役割を捉え直す」。
第1回目は、島薗進先生(上智大学教授、東京大学名誉教授、グリーフケア研究所所長)に、「3・11から仏教者が問われたもの」についてお話をうかがいました。
少子高齢化、過疎化、跡継ぎ不足などの課題を抱え、転換期を迎えている日本仏教。しかし、東日本大震災が寺院や僧侶を再認識する契機となったのではないかとご指摘いただきました。
仏教者は、現代社会から必要とされており、その役割に応えていくべき時機がきていると感じる内容でした。引き続き、第2回目は、「これからの僧侶像とスピリチュアリティ(註)」についてのお話です。

聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸

島薗進氏に聞く(第2回)これからの僧侶像とスピリチュアリティ

●AI(人工知能)と仏教
――では、これからの僧侶に期待されるあり方ということについてさらに掘り下げてお話をうかがいたいと思います。まず、そのことを考える上でとても興味深い事例があるのでご紹介したいと思います。
2015年に、一般市民対象の「未来メディア塾2015」というイベントが開催されたのですが、その中で、20年後もロボットにとって代わられることなく、人間の仕事として残りそうな職業を考える、という議論が行われたのです。そして、「看護や介護」という大方の予想を覆して、結論として挙げられたのが、何と〈お坊さん〉でした。その理由として挙げられたのが次の3つです。
お坊さんは合理性や効率の対極にいる存在である。地域や文化とも関わり、歴史的な価値を継承できる存在である。死と生に主体的に関わる存在である――。ここに、お坊さんに対する現代人の期待感やニーズが現れているのではないかと思いました。
島薗 今のお話。AI(人工知能)が発達したときにどうなるか、ということで、ずっと必要とされるのは〈お坊さん〉という答えであったということですが、それはすごいなと思います。
僧侶という〈人〉であるということが重要なポイントだと思います。AIが合理的に考えて答えられるところはあると思いますが、何でも機械がやってくれるということになると、人はますます孤独になっていきます。機械に全部やってもらって自分のしたいことをする、というのでは、根本的に足りないものがあります。人間が人間であるゆえんが失われます。
死と生の大事な問題。それは人工知能にはできないことであり、人と人をつなげることもできないと思います。そういうことができるのは僧侶であり、宗教なのだということが掘り起こされてきているのだと思います。

●なぜ、今、臨床宗教師なのか

島薗進氏

――今回の震災後においても、死と生が大きく問われる状況があったからこそ、人々はお坊さんを必要とし、お坊さんという存在を再認識したのではないかと思います。そういう背景もあって臨床宗教師という新しい宗教者のかたちも誕生したように思います。そのことはこれからの僧侶像を描く上でとても重要だと思うのですが。
島薗 私は2002年ぐらいから死生学に取り組んできているんですが、1970年ごろから、イギリス、アメリカで始まったホスピス運動というものがあります。どういうものかというと、これまでのように、医療が科学技術によって肉体の故障を治すということだけでは足りないものがあるのではないか――特に死にゆく人のケアですね――よりよく死を迎えていただくために医療は何もできないのではないか、ということに医療関係者が気づいたのです。そしてスピリチュアルケアというものが必要だということになっていきました。死への恐れ、死後の生に対する不安、生きる意味の問いなどに応じてケアする取り組みです。
ホスピス運動はその代表格ということになります。
考えてみれば、死ぬときばかりではありません。あらゆるときにスピリチュアルなニーズはあります。そのことを看護師の人たちはとても理解してきていると思います。医師においても日野原重明先生、柏木哲夫先生などは熱心に取り組んでこられました。仏教でも長岡西病院や故田中雅博先生や沼口諭先生などもおられます。こうしてスピリチュアルケアへの関心が高まってきたわけですが、でも、やはり死に直面するとなると宗教者の出番なのではないか。祈ることができるし、死について語る言葉を持っている。そして儀礼を行うことができる――。
このことをはっきりおっしゃったのが、宮城県で終末期ガン患者を中心に在宅緩和ケア医療の活動をされていた医師、岡部健先生でした。この方は、早くから東北大学の人々や文系の人たちと組んで、看取りの活動にチャプレン(病院などの現場で勤務する聖職者)や宗教的なものがどう関われるのかについて模索していました。しかし、2010年にガンになられて2012年に亡くなられたので、遺言みたいなものになってしまったのですが、最後に彼が語っていたのが、「誰にとってもスピリチュアリティは課題であり、スピリチュアルケアは一般の人にもできるが、最期の場面はやはり宗教者の領域だ」ということでした。宗教者が培ってきた蓄積、資源というものがいかに重要であるか、再認識されたということだと思います。とくに東日本大震災に遭遇して岡部先生のその思いは決定的になったようです。
そのような岡部先生の考えや志が臨床宗教師の誕生へとつながっていったのです。
臨床宗教師とは、死期が迫った患者や遺族に対して専門的な心のケアを行う宗教者です。宗教や宗派に関係なく、布教や伝道をすることなく、公共的な立場からケアを行います。そのような宗教者を育成する仕組みが生まれたということです。

 

――画期的なことですね。被災地で一緒に活動したある若いお坊さんが、次のように語っていたことを思い起こします。ある避難所に行ったとき、40代ぐらいの女性が「お坊さん、こんなに苦しいの。なんとかして。なんか話をしてくれない?」と、助けを求めてきたそうです。

聞いてみると、その女性は、〈津波から逃げるとき、隣のおばあさんが寝たきりって知ってたのに、なんで連れてこなかったんだ。自分が殺したんだ〉という思いにすごく苛まれて、毎日毎日、苦しい思いをして、泣いて過ごしていたそうです。それに対して、そのお坊さんは自分は一緒になって泣くことしかできなかった、と。また、次のように言っていました。「こういう人たちがもう一度立ち上れるようになるとき、お坊さんという存在が必要なのだとすごく感じました。そして、こんな自分じゃだめなんだということを思い知りました。今まで、生死を語ったり、葬儀を行ったりしてきましたが、いざ涙を流している人の前に行ったとき、何もできないのです。本当に自分がいやでした」。
それまでこのような心のケアに直面する機会はなかったわけで、彼にとっては宗教者としての資質を鍛えられるような貴重な体験だったのではないかと思います。その後、彼は人々の苦しみや悲しみとともに生きる僧侶でありたいと願って、東北に残って漁師の仕事を手伝いつつ僧侶として生きています。臨床宗教師の研修は生まれるべくして生まれたものではないかと感じました。
島薗 ただ、宗教に対する期待が高まっている一方で、もうこれまでの宗教には頼らないという風潮もありますね。現代社会は、合理的なもの、利益を生みだすもの、経済的な利益に合うもののみを求めている、という傾向もあります。葬祭も経済活動としてやる。葬儀も簡略され、直葬などが行われるようになって、お坊さんの役割も小さくなっている。人々の死に直面する苦悩の中で、どうそれに対応するか、ということを新たに問い直されていると思います。難しくなってきています。
「西方極楽浄土に往生します」とか「阿弥陀仏にお任せしなさい」と言って納得される方もいます。でも「そうじゃないでしょう?」と心の中で思っている人が増えてきた現代、その人たちの悩みにどう応えるかというのは新しいチャレンジだと思うのです。すごく新しい課題に遭遇しているのだと思います。新しい教育や研究が必要となって、そこで東北大学において臨床宗教師の講座が生まれたのだと思います。上智大学では実践宗教学、龍谷大学では実践真宗学という枠の中で取り組んでいます。
つまり、伝統的な仏教の研究、教育、宗学の領域を超えるものが必要とされていて、新しいアプローチが必要になってきているのではないかと思います。それは日本だけのことではないと思います。世界的にスピリチュアリティ、スピリチュアルケアという言葉が広まっています。宗教こそその役割をもっているのだけれど、これまでの宗教の言葉、人材育成のあり方だけでは対応できなくなっています。新しい展開が必要になっている。そんなところから、色々な仏教系大学で臨床宗教師の講座を行うようになってきているというのが、この数年の動きなのだろうと思います。


●これまでの宗教の枠を超えて

――臨床宗教師として活躍している、あるお坊さんの話を聞いて感銘を受けたことがあります。臨床宗教師は余命いくばくもない人に寄り添ってケアをするわけですが、そうした体験を重ねることで、そのお坊さんは「人は死んで終わるわけではない。大いなるいのちに帰るのだ」という実感が強くなって、「葬儀や法事に臨む覚悟がまったく変わりました」と話していました。だとすると、お坊さんは人が亡くなる前から関わって、よりよい死を迎えていただくサポートをしてほしい、と思いました。死にゆく人にとっても、お坊さんにとってもプラスになるのではないでしょうか。それから、臨床宗教師は布教や伝道をするのではないということでしたね。それはどうしてなのですか。
島薗 相手を布教や伝道の対象とみるのではなく、何より、苦しみを抱えた一人の人間として、その人をその人として受けとめ、寄り添うことを大事にするというのが基本姿勢です。ただ、相手が求めてきたならば、教義的なことも伝え儀礼を行う、これが臨床宗教師の共通認識です。
なぜ、そのようにしているのかと言えば、日本の場合、一般の人がどういう宗教的な観念をもっているか、様々ですね。仏教の基礎について、宗派の教えについて、知っている人もいれば、そうでもない人もいるという現実があります。しかし、自分なりに身近な人の死であるとか、子どもの問題とか、色々な経験を積んできているわけです。それに対して、自分たちの教義を説明して、これこそが答えだと言っても、ぴったり納得してもらえるとは限りません。むしろ、それぞれの探究に付き合っていくことが求められているのだと思います。自分なりに答えをもっていたとしても、その人にそのまま受け入れてもらえるとは限らないということです。自分の答えをもつことと共に様々な答えへの柔軟な向き合い方を求められている。これがスピリチュアルケアであり、臨床宗教師だと思います。
ですから、臨床宗教師は従来の宗教活動から一歩踏み出していると思います。日本の場合、色々な信仰の人や無宗教の人が多い、ということでそのような取り組みになっていると思うのですが、世界においても同じ流れがあると思います。たとえば1960年代の末にキューブラー=ロスという人が登場して、とても注目されました。死を前にした人々の苦悩について、また死の受容や死後の世界への旅立ちについて先駆的な仕事をした人です。彼女はキリスト教徒とは言えません。最初はそう言っていたけれども、最後は、そこからはみ出すような発言もしていました。そういう人の考察に学ぶところが多いということは、これまでの宗教という枠を超えて、人類文化の蓄積、資源というものと向き合いながら、新たな道を探っていくというところにきているのではないかと思います。
先ほどの岡部健先生は「お迎え現象」というものに着目しました。どういうものかというと、死を前にして、すでに亡くなっている両親や友人などが迎えに来た、という不思議な現象のことです。岡部先生はとても驚いて、社会学者などと協力して患者遺族にアンケートして調査しました。すると予想以上に多くの人が体験している、ということがわかりました。そういう経験が死に行く道を照らす力になりうる、ということで、医師もその経験から学ぶのです。そういう時代になってきているのだと思います。


――宗派によって違いはありますが、これまで日本仏教は霊魂や霊的なものに対して慎重、あるいは消極的だったと思います。先生もご著書(『日本仏教の社会倫』)で指摘されていましたが、明治時代になって近代仏教学が入って来て、その理論的な傾向にかなり影響された面もあるのもしれません。しかし、実際に現場で死と向き合ってきた人たちの中から、従来の宗教の枠組みを超えた新しい模索、展開が始まっているということでしょうか。
島薗 仏教は、元来霊魂やアートマン(我)を認めません。個別の霊魂が死後に存在する、という考えは合わないのです。その面を強調しているのは浄土真宗と曹洞宗だと思います。
しかし、必ずしも縁起的に人のいのちを捉えていくことと「お迎え現象」というものが教義として合わないというものでもないと思います。死者との絆ということは縁起の教えから言っても十分に成り立つわけで、人々の経験の中での宗教性、スピリチュアリティというものと教義をうまく整合させていくということはできると思います。
ただ、西方極楽浄土は外側にあるのではなく人の心の中にあるのだ、という捉え方があります。近代化の中で真剣に道を求めてきた仏教者が築いてきた伝統のうちで、一つの強い立場です。とくに真宗大谷派がそうです。でも、それが人々の感じている経験との間に距離が生じてきているのであれば、そこを問い直したい。〈死ねばすべて終わり〉という見方のほうが、人々の経験から言って、むしろ特殊なんだ、という捉え方もできるのではないかと思います。そういうことを仏教学なり、仏教の社会倫理という枠で考
えるようなところに今きているのではないかと思います。

(註)スピリチュアリティ 
英語のspiritualには普通、日本語の「精神の」「霊的な」「魂の」「霊魂の」「神聖なものに関する」などが充てられる。spiritualityは「霊性」「精神性」ということになるが、日本の場合、ともするとオカルティックに捉えられてしまう恐れがある。現段階ではそれを避けるふさわしい訳語が見当たらないため、英語をそのまま用いる傾向がある。その背景には、この言葉を必ずしもこれまでの宗教という枠だけで捉えるのではなく、もっと広い視野で探究しようとする考えもあるようだ。
未だスピリチュアリティ、スピリチュアルなどの西欧由来の言葉に共通した理解が確立されたというわけではないが、この数年、いくつかの解釈が提示され「人のいのち、人が生きることの根源に関わるものである」との認識が共有されつつある。日本人の感覚や日本文化に置き換える模索途上にあると言えるちなみに、人間が抱える痛みは「身体的な苦痛」ばかりではなく、「精神的な苦痛」「社会的な苦痛」そして「スピリチュアルペイン(霊的な苦痛)」も含めてトータルに捉える必要があるといわれるようになってきた。それは、すでに1990年代前半、WHO(世界保健機関)専門委員会による「健康」の定義の中で提言されたものである。従来の医療の世界では、人間の抱える苦痛として、身体的苦痛、心理的苦痛、社会的苦痛(問題)が意識されてきた。しかし、それだけでなく、スピリチュアルペインも重要な課題として、その三つと同列に位置づけようとする認識が生まれたということである。
スピリチュアルペインとは「私は何のために生きているのか、死んだらどうなってしまうのか」と、自らの存在を根底から問い直すような苦しみのことである。そのような苦しみを抱える人にいったい何ができるのかが、今や重要なテーマとなっている。

 

(次回は6月21日配信予定)

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