【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す⑪

2019.09.27

引き続き、島薗進氏(上智大学大学院実践宗教学研究科教授、グリーフケア研究所所長、東京大学名誉教授)に本特集のまとめのお話をうかがう。前回は、明治期における瓜生岩をはじめとする仏教社会事業、そして、今後の仏教の在り方を考えるとき、地域社会が鍵である、とのお話をうかがった。
転換期に際して新しい時代を切り拓かんとする宗門の伝統は現在まで一貫しているのではないか、とのご指摘には励まされる思いでもあった。今回は、曹洞宗とシャンティ国際ボランティア会(以下シャンティ)の連携の可能性などについてお話をうかがった。

聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸

〈終章〉島薗進氏に聞く(第2回)曹洞宗とシャンティとの連携

● 曹洞宗とシャンティ連携の可能性
島薗 
今回は、私の方からも大菅さんにお話をお聞きしたいと思っています。今年1月、曹洞宗とシャンティとの間で、相互協力に関する協約書が締結されたということですが、これは、なかなか興味深いことだと思っています。シャンティは、これまでは、どちらかというと海外の活動が中心でしたね。曹洞宗青年会なども海外の活動でシャンティを支援するというケースが多かったのではないでしょうか。
――そうですね。とくに宮城県曹洞宗青年会の皆さんなどは、サンタピアップ宮城というグループを立ち上げて、カンボジアの学校建設を長い間、支援してくださっています。


島薗
 シャンティの創立はいつでしたか。 
――1981年です。JSRC(曹洞宗東南アジア難民救済会議)の活動を引き継ぐ形で「曹洞宗ボランティア会」としてスタートしました。(その後、2011年、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会となる)

島薗 70年代、80年代の日本人にとっては、社会貢献やボランティアなどといっても、それほど現実感がなかったのではないでしょうか。
――今から40年前の1979年、第一次調査団の若手僧侶のメンバーが、初めて難民キャンプに入ったとき、すでに支援に入っていた外国のNGO関係者から、「やっと日本人が来ましたね。タケダ(武田薬品)さんやトヨタさんはとっくに来ているよ」と言われたそうです。見ると医療班の使う薬品は日本製、キャンプを走る救援用の車もトヨタかニッサン。日本人って、モノやお金はすぐに出すけど、人はなかなか出してくれない、という皮肉だったわけです。日本の国際協力の現状がいかに遅れているのか、肌で感じたときだったようです。
たしかに日本人の社会貢献とかボランティアなどに対する関心はそれほど高くなかったと思います。

 

島薗 社会には弱い立場の人がいましたが、様々なセーフティネット、つまり、その人たちを保護するための様々な仕組みがありましたね。何といっても家族や親族の存在が一番大きいわけですが、地域社会や新宗教教団もそういう役割を果たしてきたと思います。
たとえば、都会生活で孤立して悩んでいる女性を同じ女性の仲間たちが助けるとか、新宗教のつながりの力が、そういう人々をすくいあげるとか。それが50年代、60年代でした。
しかし、だんだんそういうものが機能しなくなっていきます。70年代、80年代が転換点になって、やがてバブルが弾けて孤立する人が目立つようになっていきます。
そして、90年代になって、阪神淡路大震災のときは、多くの若者たちが被災地に入ってボランティア活動に取り組みましたね。ボランティア元年と言われて、身近なところで支援活動をする意義を感じる人たちがどっと現れたのではないでしょうか。
――そうですね。そして、そういう動きが後押しする形になり市民活動を奨励する動きが加速化し、NPO法が制定され、NPO法人が沢山生まれることにつながっていったと思います。
島薗 なぜ、そのようにボランティア活動や社会貢献活動が活発になっていったかというと、1つには、生活が豊かになって余裕が生まれてきた、という面があると思います。
しかし、その一方で、豊かさの反面として、無縁社会といわれる状況とか、貧困層、孤立する人など、セーフティネットから外れる人たちの存在が目立つようになってきて、豊かと言ってもじつは危うい社会関係の中に生きているのだ、ということをみんなが自覚するようになってきたからだと思います。そこから、何らかの形で行動したい、という社会参加の気運が生まれてきたのだと思うのです。
確かそうな組織や集団に所属して安心や安定感を得られれば、それで満足、というのではなく、社会に飛び込んでいって新しい関わりを求めようとする人々が増えてきたように思うのです。支援活動の現場において、よく「人を助ける」といいますね。〈助ける側は、いつも助ける側〉で〈助けられる側は、いつも助けられる側〉か、というと、そうではなく、〈助ける側が、助けられる側でもある〉。じつは相互的なものなんですね。そういう意識をもった支援活動になってきているのではないでしょうか。

タイ カオイダン難民キャンプの僧侶たち(1980年)

――とても大切なところですね。〈助ける側が、助けられる側でもある〉という意識は、私たちが活動を通して肌で感じてきたことでもあります。
たとえば、シャンティの先輩である僧侶の方々が、やはり1980年代、支援活動のために、はじめてカンボジア難民キャンプに入ったときのことです。難民たちは、「日本からわざわざ来てくれた。それだけで嬉しい」と、ミルクや麺類を布施してくれたそうなんです。自分たちの食糧さえ覚束おぼつかないにも関わらずです。そのことに強いショックを受けて、僧侶たちは「こちらが助けてやるだなんてとんでもない。こちらも大切なことを学ぶ機会なのだ」と思ったそうです。
ある僧侶の方などは、難民の姿から〈三輪空寂の布施〉を学んだ、とも語っていました。布施する側、施物、布施を受ける側、その三者が、どちらが上だとか下だとかいうことなく、対等に支え合い、生かし合う布施ということですね。まさに、今、おっしゃった、助ける側が助けられる側でもある、ということにつながるものだと思います。仏教はボランティアの根底にある考え方を的確に表現している宗教なのだと思っています。


島薗
 シャンティは東南アジアで活動されてきて、現地の僧侶たちから学んだことも大きかったのではないでしょうか。
――そうですね。カンボジアやタイの僧侶と接する機会が多く、その存在感、人々への影響力の大きさに目を開かれることが少なくなかったです。上座部系の仏教者というのは、自分の悟りだけを求めて、社会に対して積極的に関わらない人々、という通念があるように思いますが、とんでもない誤解だと気づかされました。
たとえば、カンボジア僧のゴーサナンダ和尚などは、同胞を助けるために難民キャンプの国境付近で資金集めに奔走し、死にそうな人がいれば抱きかかえて病院に運んでいました。「戒律に触れないのですか」と聞いたら、「ブッダはきっと許してくださる。マサカノトモコソ、シンノトモ(まさかの友こそ真の友)」と、日本の諺で答えたそうです。
東北タイの僧、ナーン和尚などは、村人に瞑想を教え、自分の心を見つめ、進むべき道を自分たちで見出せるように指導していました。つまり、村人自身が村の問題を直視し、原因を追求し、克服する道を発見して、共に歩む道を導いていたのです。具体的には米銀行(米を共同管理する仕組み)を作って、村人を貧困から守る方法を生み出しました。自己開発を基にした社会開発、仏法による社会開発の実践ですね。このように、出家者として物心両面の開発に取り組む人は〈開発かいほつ僧、開発尼僧〉と呼ばれているのですが、こうした姿から日本の仏教者が学ぶことは少なくないと思います。
島薗 仏教は、そもそも出家主義、出家中心主義であって、日本の仏教でいうと禅宗がとくにそういう性格が強かったのだろうと思いますが、曹洞宗においては大内青巒居士などが在家を巻き込んだ仏教のあり方を模索していたのではないでしょうか。
その点、上座部仏教はもっと出家主義の傾向が強いわけですが、〈開発〉ということを通して、在家の人々を巻き込み、社会の中で具体化していく仏教につなげていったのだと思います。
台湾でも成功している例がありますね。仏光山を開いた星雲大師という人は「文化で仏法を広め、教育で人材を育成し、慈善で社会に福祉をもたらし、共に修行することによって人心を浄化する」というスローガンを掲げて「人間仏教」を提唱し、文化や教育、慈善事業などに力を入れています。
人々のニーズを巧みに取り入れて、現代社会に適応する形の活動に変化させていったのだと思います。
同じく台湾の仏教系の慈善団体である「慈済基金会」も、仏教精神に基づいて、医療、教育、災害救援などに精力的な活動をしていますね。東日本大震災の際は、世界から義援金を集めて被災者を支援してくれました。どちらも、すさまじい勢いと規模の活動を展開しています。
それらの考え方のもとになっているのが「一般の人々の生活の中でこそ仏教は生きるのだ」という理念なんですね。世界の仏教界にみられるこのような動きについて、西洋の学者はエンゲージド・ブッディズム(社会参加仏教)と呼んだわけです。しかし正法を求めるのが仏教であるなら、もともと仏教は社会にエンゲージ(参加)していなかったわけではないと思います。

インタビュアー・大菅俊幸氏

――ひところ社会参加仏教という言葉がもてはやされましたが、少なくともシャンティを立ち上げたり、関わったりしてこられた曹洞宗の僧侶の方々は、とくに〈社会参加仏教〉という言葉を使わずとも、自ずから社会参加仏教を実践していたのだと思います。
シャンティが活動を開始した1980年代のアジアでは、急速な近代化と経済成長が進んで、国家や多国籍企業による上からの開発に対する批判の声があがっていました。そして、これまでのような「物の開発」を中心とした近代化や経済成長ではなく、「心の開発」を重視する開発の考え方が登場したのです。それは仏教思想に基づいて現代社会の問題に対応することをめざすもので、一人一人の心の開発、自己実現が重視され、固有の文化を尊重し、地域住民が主体的に参加することが大切にされた社会開発の考え方でした。
それを主導したのが、先ほどのタイの開発僧やそれに共鳴する人々、そしてカンボジアのゴーサナンダ和尚などでした。
ですから、当時、シャンティに関わった人たちが、そのような人たちと行動を共にすることができたことはとても貴重であったと思います。その体験や智恵を伝えていく責任があると思っています。
島薗 スリランカの「サルボダヤ・シュラマダーナ運動」などもそうですね。仏教をベースにした社会参加活動の1つのモデルとなるもので、日本でも共鳴する人がいるようです。創立者であるアリヤラトネ氏は元々高校の先生だった方ですね。
――「サルボダヤ・シュラマダーナ運動」は、私もずっと関心をもち続けている運動です。民衆が主体となった開発運動ですね。単なる物質的生活の向上をめざす社会開発運動ではなく、サンスクリット語で、サルバ(すべて)ウダヤ(目覚め)という言葉で表現しているように、仏教に基づいて、個人から世界にいたるまで、「すべてのものの幸福と覚醒をめざす」精神文化の開発運動でもあります。それを「持てる力(シュラマ)の分かち合い(ダーナ)」によって実践しようとするものです。仏教をベースにした注目すべきビジョンであり運動だと思います。
故・有馬実成師(シャンティ初代専務理事、山口県原江寺前住職)もサルボダヤ運動に学ぶべきであると、よくおっしゃっていました。

 

島薗 前回もお話ししたように、明治になって近代社会に変わっていく過程で、さらに20世紀になって戦後を迎えたときもそうですが、日本仏教は時代の大きな転換期において一般庶民をどういうふうに巻き込んでいくか、と様々に工夫してそれぞれの道を歩んできたわけですね。そして今、また同じところ、つまり転換期に差し掛かっているのではないでしょうか。
シャンティも、これまでアジアで蓄えてきたものをもとに日本社会に適応していくときなのか、と感じます。
――シャンティは東日本大震災の被災地で、国内では初めて移動図書館活動に取り組んだのです。この活動は、1980年代の難民キャンプ以来、海外でずっと取り組んできた私たちの特徴と言える活動なのですが、仮設住宅の皆さんにとても喜んでいただいて、日本でも必要とされる活動であることがよくわかりました。
島薗 曹洞宗とシャンティが協定を結ばれて、相互協力を進めるということですから、災害支援の際の連携もあると思いますが、そればかりでなく、もっともっと様々な可能性が開かれるのではないかと思います。
――ありがとうございます。日本社会は、今後、益々外国人が増えていくことでもあり、人生100年時代ともいわれます。必要とされていることは沢山あるような気がいたします。これまで以上に宗門と連携させていただくことで、今までできなかったこと、他ではできないことも可能になるかもしれません。新たな飛躍に向かいたいと思います。

●宗派、宗教を超えて人々に寄り添う

島薗進氏

島薗 話は変わるのですが、この連載特集で川又先生のお話にも出てきましたが、一般の方からすると、そのお寺がどの宗派なのか、あまり関係ないんですね。中には仏教に詳しい人もいて、伝統だから何々宗でなければならない、という人もいると思うんですが、どの宗派でもかまわない、という人もいると思うんです。
地域によっては宗派を超えて月参りを行っているところもあると聞いたことがあります。法事はそれぞれ宗派のお寺で行うものですが、地域社会のニーズに応えるということや、苦の現場に沿った仏教の展開ということを考えると、宗派というものにこだわることなく、宗教としての協働の役割がもっと前面に出てもいいのではないかと思います。
ところで、太田宏人さんという方をご存知ですか。
――お坊さんでライターをなさっていた方ですか。
島薗 はい。南米のペルーで日系人向け新聞『ペルー新報』日本語版の編集長をされていた方です。もともと在家の方でずっとライターの仕事をされていたようですが、2012年に曹洞宗の僧侶となって、僧侶としての自らの活動や問題意識をライターとして発信するようになったようです。
僧侶としては異色の存在だったのではないかと思います。寺をもつことはなく、東日本大震災の被災地に入って死者を鎮魂し、被災者に寄り添って、熊本地震の避難所にもいち早く入ったり、新潟では終末期医療の現場で活動していました。残念ながら昨年、48歳で亡くなられたのですが、あちらこちらで皆さんから信頼されていたようです。
大阪大学教授の稲場圭信先生(宗教者災害支援連絡会世話人)から聞いたのですが、熊本の避難所で太田さんに出会ったとき、太田さんは、かなり汚れている仮設トイレを手作業で掃除をし続けていたそうです。仮設トイレがきれいであれば利用する人の心と体の負担が軽減されるから、ということで。稲場先生は、「避難所で『トイレの仏さま』に出会った」と話していました。そういう活動を個人としてあちらこちらでなさった方です。
――いろいろなところで種を蒔いた、という感じですね。


島薗 過日行われた国際宗教研究所のシンポジウムでも、神奈川県の弥生神社で独自の活動をなさっている池田奈津江さんという神職の方が、災害支援活動を仏教の方と一緒に行うことで、神職としての自分の役割が初めて見えたとおっしゃっていました。池田さんは写経に代わるものとして、お祓い言葉を書き写すとか、お守りを一緒に作るとか、色々な活動に取り組んでいるんですが、太田さんから受けた影響が大きいと話しておられました。
そういうことで、宗派、宗教を超えて連携する、ということが全然不自然ではない状況になっていると思います。曹洞宗には他にも太田さんのような方がいらっしゃるのではないでしょうか。
――日本には、400年以上も昔に、半僧半俗の「遁世僧」「ひじり」と呼ばれた人たちがいましたね。大きなお寺に入ることなく、各地に出かけて人々に寄り添った仏教者です。太田さんは現代の〈聖〉であろうとしたようにも見えます。
島薗 15世紀から17世紀にかけて、全国にお寺が沢山できたときには、そういう人たちが沢山いたと思うんです。つまり、地域社会を廻って、困った人がいると助けて、お経をあげて一緒にお参りしたりして、そこから檀信徒が生まれる。そして、そういう僧侶たちのために地域の人たちがお堂を作る。そういう時代に立ち戻って考えてみるのもいいのではないかと思います。お寺の外に出て、人々の苦の現実に近づいていく。そのことがお寺の活動を深め、活性化につながっていくと思うのです。
――今、お話をうかがって、改めて有馬師のことを想い起こしました。かつて有馬師は自己紹介をするとき、よくこんなふうに言っていました。「私は住職なので、寺にいなければならないのですが、いつも外をとびまわっているので〈とび職〉なんです」。こう言って周りを笑わせていました。檀務もこなしつつ、必要とあらば、全国どこにでも、アジアにも出かけていましたからね。言い得て妙な気がします。
もちろん、お坊さんにとってしっかりお寺を守ることが大切ですが、各地に出かけ、飛び回って、人々に寄り添う、そんな〈とび職〉的なお坊さんも、もっといてほしいという気がいたします。
今回は、僭越ながら、だいぶ私の方もお話させていただいてありがとうございました。次回はいよいよ最終回となります。僧侶やお寺が主導する「共感地域」やこれからの人材育成のあり方など、さらに具体的に突っ込んだお話をうかがいたいと思います。

(次回は10月11日配信予定)

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