【連続インタビュー】仏教の社会的役割を捉え直す⑫

2019.10.11

今回も、引き続き島薗進氏(上智大学大学院実践宗教学研究科教授、同グリーフケア研究所所長、東京大学名誉教授)に本特集のまとめのお話をうかがいます。
前回は、まず曹洞宗とシャンティの連携の可能性についてお話をうかがいました。シャンティの創立以来の歩みについても触れて、アジアの開発僧やサルボダヤ運動から学ぶべきところが多いことを知りました。後半は、今は亡き1人の宗侶の実践などを通して、宗派や宗教を越えて、人々に寄り添う仏教者が求められていることも明らかとなりました。
さて、今回は、血縁や地縁が弱くなって空洞化している日本において、地域社会における宗教者の役割がいかに重要であるか、そして現代の要請に応えうる僧侶の育成のあり方についてお話をうかがいます。なお、島薗氏へのインタビューは今回が最終回となります。

聞き手・構成 (公社)シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー・曹洞宗総合研究センター講師 大菅俊幸

〈終章〉島薗進氏に聞く(最終回)現代社会の痛みに応える

●僧侶や寺院が主導して〈共感〉の地域を
――前回は、後半において故太田宏人師のことなどを通して、社会を廻って、困難を抱える人を助ける僧侶の存在について感銘深く聞かせていただきました。しかし、その一方で、血縁や地縁が危うくなりつつある現代だけに、地域に根ざしている僧侶や寺院に期待される役割も大きなものがあると思います。その点についてはいかがでしょうか。
島薗 たとえば梅花流詠讃歌は、今、少し発展に陰りが見えてはいるのですが、やはり戦後の曹洞宗の寺院活動を広げる上でとても大きな意味があったのではないかと思います。今でもお葬式にご詠歌があるので心が慰められるという人もいます。それは伝統的な葬儀の法要からみると、やや異質かと思いますが、大事なことではないかと思います。
ご詠歌を学ぶためにお寺に出入りするようになった人たちがいるわけですから、在家とお寺が近くなる、という効果があったのだと思います。それをもっと活かしていく道が今求められているのではないかと思います。
先に「子ども食堂」のお話をしましたが、それを宗教施設で行う、というケースが増えているんですね。それはこの5年ぐらいの話です。子ども食堂そのものが、ものすごい勢いで増えているのですが、それはなぜかというと、かつての地縁や血縁が弱くなって、日本社会が空洞化しています。それを少しでも埋めよう、ということで、子ども食堂ということになっているのだと思うのです。それによって新しい縁が生まれます。その場所としてはまさに宗教施設がふさわしいのだと思います。スペースがありますし、ゆったりした場所を提供できます。お寺は、元々弱い人のための、いわゆるアジール(避難所)的な機能をもっているわけですが、人が集まって何かするためには、住職や寺族だけでは手が足りませんね。そこへ在家の方が参加できるような形ができれば、とてもいいと思います。もし、お寺に梅花講があると自然にその人たちが手伝うことができるのではないでしょうか。 
たとえば、宮城県石巻市の洞源院さんなどは、梅花講の活動もなさっていますが、普段から子ども学校も運営しています。そのように、普段から在家の人がお寺に来るような形態があると、災害のときなども自然に連携して活動できるのではないかと思います。
もちろん、そのときに集まってきた人たちは、お寺や住職に依存するのではなく、自治的な活動をしなければなりません。リーダーも在家の人から出ていただくことになると思います。

――今、「子ども食堂」のお話が出ましたが、最近、親子の絆が危うくなっていることを感じます。児童虐待が頻発していますし、親が実の子を手にかけるという事件もありました。学校も児童相談所も手一杯。限界を感じているようです。地域の力、地域の教育力が求められているのではないかと思います。子ども食堂は、そんな時代のニーズに応える活動の1つとなるのではないでしょうか。お寺を拠点として、地域の人たちが一緒になって運営する、という形は、まさにこの時代にぴったりの活動だと思います。
島薗 これまでの社会は、ある程度の家族の規模があったからこそ外の世界ともおのずからつながることができたのだと思います。しかし、今は、核家族化が進んだこともあり、本当に親しい人のつながり、というのが小さくなって、それに亀裂が生じると外からアプローチできなくなって関係性が壊れてしまう、あるいは孤立してしまう。そんな例が沢山現れているように思います。ですから、普段から人々が接することができるような様々なつながりを作っておく、ということが大事なのだと思います。子ども食堂はそういうものだと思います。カフェ・デ・モンク(宗教者が軽トラックに喫茶店の道具一式を積み込んで被災地などを巡る「移動傾聴喫茶」)も、行茶もそういうものだと思います。
そういう場に宗教者が関わって、つながりをなごやかにする。そして宗教者がいるからこそ大事なことをやっているのだということがわかる。そのような活動の形が求められているのではないでしょうか。
臨床宗教師も、ゆくゆくそのようなはたらきを果たして行かなければならないと思います。臨床宗教師というと、病院に行って患者さんの心のケアを行う人、という印象があると思うのですが、そればかりではなく、むしろ、もっと地域社会に広がっていく必要があると思います。たとえば、長野県松本市の飯島惠道さん(東昌寺住職)のように、「ケア集団ハートビート」を立ち上げて、地域社会と協力し合って「生老病死のトータルケア」の実現をめざす活動だとか、秋田県藤里町の袴田俊英さん(月宗寺住職)が取り組んでいるように、「心といのちを考える会」を立ち上げて、「よってたもれ」というカフェを始めて、地域の自死対策、自死予防に取り組むような活動とかですね。

――たしかに「子ども食堂」や「カフェ・デ・モンク」などが登場する背景にあるものを考えてみると、共感し、支え合う地域づくり、絆づくり、が求められている、のだと感じます。
地域レベル、あるいは地域を越えたレベルで〈心を支える仕組みづくり〉が必要なのではないかと思います。それをどう作るのか。お寺や僧侶の果たせる役割はとても大きなものがありますね。
島薗 心が通い合う、ということはそれほど簡単ではないですよね。たとえば趣味が一致するから心を開くということもあると思います。私はカラオケが好きなんです、ということで仲間ができる、ということもある。しかし、苦が動機となる場に宗教者が関わることで、趣味の世界を超えた高い意味を共有できます。お互いに自分の悩みをうち明け、それを受け入れる雰囲気が生まれます。そういう試みが広がりつつあるのではないかと思います。
子ども食堂の場合などは、一緒にご飯を食べているうちに悩みを話せます。その悩みを助け合いに広げていこうとするとき、そこに信頼できる人が必要となり、宗教者の出番がやってくるということにもなる。実際に行うのは大変だと思いますが。

――先日(2月23日)開催された「地域社会と宗教者―グリーフケアと災害・防災」というシンポジウム(宗援連とRISTEX川崎プロジェクトの共催)で、発表者の飯島惠道さんが紹介していましたが、「共感都市」「共感の倫理」という考えがあるのだそうですね。松本市をぜひ共感都市にしてきたいと話しておられて感銘を受けたのですが、斬新な考え方だと思いました。
島薗 「共感都市」ということばは、元々コンパッショネート・シティズ(Compassionate Cities) といって、アラン・ケリヒアというオーストラリアの社会学者などが提唱し展開している構想ですね。私たちもコンタクトしているのですが、オーストラリアやイギリスにおいて、この考え方に希望をもつ人たちが増えていて、日本でも松本市はその例になりうるのではないか、と思っています。
「共感都市」というものが、どういう構想なのかというと、次のような「共感の倫理」によって支えられる都市であるといわれます。――同じ地域社会に住む人々の悲しみに共感することは、そのコミュニティの住民全員が健康に生きるためには欠かせない倫理である。共感とは、単なる個人の受動的な感情にとどまらない、より包括的で、環境を実際に変えていくような実践的な倫理である――。そのような「共感の倫理」によるまちづくりを広げよう、という考え方ですね。
コンパッションというのは「慈悲」の英語訳なんです。悲しみに寄り添うということで、仏教の1つの特徴でもあると思いますが、海外でも認知されているわけです。このコンパッショネート・シティズに共鳴している人たちの中には、もともと教会で実践していたのですが、教会では自分たちが本当にやりたいことができないので、むしろ地域社会全体にそういうものを広げたいと考えている人もいます。
地域社会には、宗教者だけではなく、こうして地域のつながりを考えている人たちがいるということだと思います。社会福祉協議会の人たちから行政の関係者、そして医療関係者や介護に携わる人に至るまでですね。そういう人たちと宗教者が協力する可能性が世界的にも注目されているのです。

――仏教的な表現をするなら、「慈悲の心で寄り添う地域社会づくり」という感じになるでしょうか。
島薗 日本には、保護司、民生委員などに携わっている僧侶の方々がいらっしゃいますね。昔は、学校の教員とか、公務員をなさっている方もけっこういらっしゃったと思います。つまり、地域に根ざして地域の様々な苦悩や課題に寄り添う僧侶の方々ですね。
災害があると必ず孤児が発生します。戦争が起きたときもそうだと思います。そのお世話をするのはお寺の役割なのだ、という考えが、どうも中世の時代あたりからあるんですね。そういう機能がまたお寺に戻ってきている感じがします。

――最近、話題になっているものとして「おてらおやつクラブ」というものがありますね。お寺に寄せられたお菓子を貧困家庭などの子どもたちに提供する活動です。浄土宗の僧侶が中心となって今では全国的な規模になっています。いわばお寺にあるものと社会に欠落しているものをつなぐ運動ですね。この運動は昨年のグッドデザイン大賞を受賞しているのです。通常は〈形あるもの〉を対象に贈られる賞なのですが、〈形のない仕組み〉に対して、それも僧侶が受賞したということで評判になっているようです。〈志の美しさ〉も評価の対象となったそうで、そのことにも感動しました。発想と工夫しだいで、僧侶やお寺には様々な可能性があることを示した実例ではないでしょうか。
島薗 それは「贈与の文化」ということになるのだと思います。つまり、現代は、ますます市場経済の文化になって、対価があってモノが動く、という時代になっています。しかし、贈与の文化の方が歴史は古いのです。たとえば、福島の被災地でも、昔はそれぞれの家で作ったものをみんなで分けて食べていたわけです。農家というのは、だいたい小規模でいろいろなものを作って、余っても売りに出すのではなく、お互いに近隣の人たちで分かち合うという習慣があったと思うのです。
そのような市場経済と違う贈与の文化。そこには「お互いさま」という、心の通い合う関係を大事にするという姿勢があると思います。それは宗教界がよく伝えているものだと思います。
「おてらおやつクラブ」の前に、米一升運動というものがありましたね。災害があるとそれぞれのお寺からお米を出す、というものでした。それから、「畳半畳運動」というものがあります。これは災害時に備えて、畳半畳分のものをお寺でしっかり備蓄しておきましょう、という運動です。こういうものは、昔からあった「支え合いの文化」だと思います。市場経済以前からある大事なものを伝えているのだと思います。そういうものを社会が必要としているのだと思います。
ですから、震災後に生じた人々の変化、ということになりますが、様々な意味で、多くの人々が現代社会のあり方に批判的になってきて、同時にこれまで宗教が伝えてきたものの意義を認めるようになってきています。そういう変化もあって、宗教者や僧侶が支援活動に参加することが、一般社会の人たちの宗教に対する期待感を高めることにもつながっていると思います。


●僧侶の育成システム
――ありがとうございます。では、次のお話をうかがいたいと思います。
「支援活動、ボランティア活動などと、教義、教理はどこにいったのだ」というご意見がある、ということを耳にしたことがあります。でも、現場で苦悩を抱えた人たちと接する体験から、教義や信仰というものが深まり、自分の血肉になっていくのではないかと思います。実際に、現場に入った多くの僧侶の皆さんはそのような体験をされています。決して教義の探究と苦の現場での行動は別ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
島薗 今おっしゃったように、現場での体験を通して教義や信仰の深まりを得られたという実感をもつ若い僧侶の皆さん、曹洞宗青年会の皆さんなどは、相当、増えているように感じます。私は仏教学のあり方も変わってほしいと思っています。あるいは大学も変わってほしい。今、おっしゃったような経典にあるもの、宗教本来の教えとされているものと、現実の中で機能する宗教的なもの。そこが遠くなっているので、これをつなぐような研究や活動に研究者も取り組まなくてはならないと思います。曹洞宗総合研究センターもそういうことが求められていると思います。
――それは、このインタビュー特集で、川又俊則先生が指摘されたこと(2019年3月号)にもつながるように思います。――教員の研修というのは、激動する教育環境の変化に対応するため常に問い直され、徹底して行われています。それに比べて宗教者の育成システムはどうでしょうか――といった趣旨の問題提起をされていました。僧侶の育成についてのご提言、ご提案はいかがでしょうか。
島薗 現場に出かけて体験するような、実習的な面もとても重要だと思いますが、歴史や社会の現実、仏教や宗派の教えを相対化してみる。そういうことも、もう少し必要なのではないでしょうか。もちろん、禅学、宗学、仏教学というのが基盤であるとは思いますが、宗教学、歴史学において、圭室諦成先生、竹田聴州先生、池田英俊先生、圭室文雄先生など、仏教の素養をおもちになった学者が切り拓いたものはとても大きいと思います。
かつては、仏教系の大学に、他の分野で活躍している仏教界出身の方、僧侶の方が沢山おられました。そのあたりのことを考えて、もっと交流してみてはどうかと思います。社会福祉とか、臨床心理などの専門家の方が宗教についてあまりに知らないという状況ももの足りない気がします。しかし宗教系の大学あたりから変わりつつあるようにも思います。上智大学では実践宗教学研究科死生学専攻ということで活動を始めていますし、東北大学でも死生学・実践宗教学研究室として臨床宗教師の養成を中心に展開しています。色々な形で仏教の学術的な枠を広げていったらいいのではないかと思います。

――同じくこの特集で、前田伸子先生にお話をうかがったわけですが、大本山總持寺と鶴見大学の連携、つまり修行僧に、臨床宗教師養成研修のうちコミュケーション能力の育成に特化して行う、という取り組み(2018年11月号)ですが、それについてはどのように受けとめておられますか。
島薗 とても意義があると思っています。愛知学院大学や大正大学にも臨床宗教師養成コースがあるので、そこでも私は講義をもっているのですが、臨床宗教師の研修では医療機関での実習があります。これにはとても意味があります。何といっても実習によって自分にできることがある、ということに気づいてもらうことがとても大きい。
それから、実習で指導してくれるのは医療機関なわけですが、そこの人たちがとても仏教に期待している、ということを肌で感じるわけです。それから、今、ここでお話ししていることも、じつは私がそれらの講義でお話ししているような内容なんです。宗教と社会の関係がどんなふうに変わっているか、とか。宗教者の役割のあり方もこういうふうに変わっている、とかですね。

シャンティ主催の僧侶ツアー カンボジア僧侶との語らい

――私どもシャンティの東京事務所では、現在、2人の若い宗侶がスタッフとして頑張っているのですが、他の若い宗侶の皆さんにもそのような体験をしていただきたいと思うのです。本山での修行などののち、シャンティのスタッフとして、困難を抱える海外や国内の現場で様々な体験を積んでいただくことも、より幅広い僧侶になっていただく上で有益ではないかと思います。一緒に活動していただければと思っています。それとは別に僧侶ツアーも企画しています。そちらに参加するのもいい体験になると思います。
島薗 なるほど、そういう道もあるわけですね。これまで、社会的に活動して頑張っている僧侶の中には「周りから『大きなお寺だからできるのだ』と、言われることもあった」とおっしゃる方もいました。しかし、小さなお寺で様々な活動ができる例も出てきましたし、行茶活動のように、お寺同士が横の連携をはかることでできることがあるのだ、という認識もかなり広まってきました。
そういう動きを教団が支援することが、個々の寺院の底力の向上につながるのだという認識をもつことが大切ではないでしょうか。お寺の基盤を作るためには、将来的に少し長い目で見れば、お寺同士の横のつながりや災害支援などをバックアップすることが力になるのだという認識ですね。
個々のお寺で頑張っているところは沢山あるのですが、横の連携となると弱いのではないかと思います。個々のお寺、個々の地域の独立性は尊びながら、教団はそれを少なくとも妨げないで、助けてゆく。そして、そのようなお寺や地域の情報を共有して、教団全体の未来像をつくってゆく、というようなことが必要ではないかと思います。
すぐには理解していただけないかもしれませんが、集いを開催したり、広報して理解していただいて、教団として支援する。そこが日本の仏教界の大きな課題だと思います。

――お寺同士の横の連携というと、この特集で川又先生が紹介してくださったキリスト教の共同牧会や真宗高田派の七里講のことを想い起こします(2019年3月号)。異なった教会、異なったお寺の信徒どうしが連携し合って、教会やお寺を守ってゆくというあり方ですね。とても示唆に富んでいたと思います。
島薗 宗派や宗教を越えた連携ということになりますが、日本臨床宗教師会は、完全に超宗派で地域ごとに活動しています。そういう例もあります。
それから、この間(2018年12月)山口県で、「神仏分離150年シンポジウム」が開催されました。山口県仏教会、山口県曹洞宗青年会、曹洞宗布教研究会、そして臨済宗などが音頭をとって、山口大学人文学部との共催で、とても意義深い集いでした。
山口県は元長州藩ですから、明治維新を基本的によいこと、として見るわけですが、しかし、神仏分離や廃仏毀釈がもたらしたものが現代からどう見えるか、専門家にもご協力いただいて議論したのです。私も、近代の仏教が神仏分離からどのような影響を受けたのか、話をさせていただいたのですが、明治維新以来150年がもたらした明暗を、宗教史の側面から振り返る、という点でも、とても意義ある集いだったと思います。宗派を超えたそういう協力はとても自然だと思いました。そういうことをもっと推進していったらいいのではないかと思います。
カフェ・デ・モンクも、宮城県宗教法人連絡協議会というものがあって、初めから超宗派で取り組んだ活動です。そこで曹洞宗の方が中心となったわけですね。こういう横の連携が益々重要になってくると思います。
世界的に見れば、仏教としての連携というのも重要だと思いますし、学問においても、人文系の学問が宗教の力を見直すべきときにきていると思います。色々な側面から仏教と社会の関係を見直す時代にきているのでしょう。

――前回のお話では、アジアの開発僧やサルボダヤ運動のお話にも及びましたが、世界的視野で仏教と社会の関係を見直すことも必要ですね。
ご存知と思いますが、2015年の国連総会において、2030年までに世界中が協力して取り組むべき共通目標として、SDGs(持続可能な開発目標)という17の目標が採択されました。私どもシャンティも属するNGO界もそれに向かって少しでも前進するように努力しているのですが、その目標の中には、これまで曹洞宗が取り組んでこられた人権、平和、環境という(*)テーマも含まれているのです。
ですからSDGsは宗門がめざしてきた方向と別ではないと思うのです。
島薗 その3つのテーマをもっと広く捉えて、社会の痛みに応えていく、という方向に展開していただいたらどうでしょうか。東日本大震災などの災害支援活動を通して社会の痛みに応えることの重要性を再認識されたことと思いますので、ぜひそのような方向に向かわれることを期待します。
――ありがとうございます。今回がインタビューの最終回となりますが、島薗先生には、何度もご登場いただいて貴重なお話をうかがうことができました。瓜生岩のゆかりを訪ねる福島の旅もご一緒させていただいて、私個人としても目が開かれました。本当にありがとうございました。


(*)持続可能な開発目標 (SDGs:Sustainable Development Goals)には、「誰一人取り残さない」という理念のもと、貧困、飢餓、働きがい、教育、経済成長、気候変動など、世界が抱える様々な課題が網羅されているが、次のように、人権、平和、環境に関する目標も掲げられている。
――「エネルギーをみんなにそしてクリーンに」「気候変動に具体的な対策を」「海の豊かさを守ろう」「陸の豊かさも守ろう」「平和と公正をすべての人に」「人や国の不平等をなくそう」。

(次回は10月25日配信予定)

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