【シャンティ国際ボランティア会(SVA)だより】カンボジア難民キャンプからカンボジア国内の教育・文化復興支援への道のり~カンボジア事務所開設
1975年4月、カンボジアにポル・ポト政権が成立すると、「原始共産社会」の建設を目指し、学校・大学・寺院・図書館など教育・文化機関は徹底的に破壊されました。教師や僧侶、知識人は迫害され、多くの書籍も失われました。約4年間で170万人以上が命を落としたとされ、カンボジア社会の人的・文化的基盤は壊滅的な打撃を受けました。
1979年1月にベトナム軍のカンボジア侵攻によりポル・ポト政権が崩壊しましたが、戦火を逃れ、地雷原や密林を越えて、数十万人ものカンボジア人が命からがらタイ・カンボジア国境に避難しました。ある人はその途中で、ある人は避難キャンプに到着して、力尽きて亡くなる地獄のような状況でした。
食料や医療などの緊急支援は国際社会から開始されましたが、教育や文化の精神的な支援は十分とはいえませんでした。そのような中、シャンティ国際ボランティア会(SVA)の前身である曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)が1980年1月に創設され、難民が人間としての尊厳を回復し、自らの力で未来を切り拓くためには、教育と精神文化支援が不可欠であるとの考えから活動を開始しました。
クメール語の伝統文化図書の印刷出版、図書館、寺子屋、謄写版による教材作成、焼き物教室など、多様な活動は単に知識や技術を与えるだけでなく、クメール語図書の出版活動や伝統文化の継承を通じて、難民一人ひとりが民族としての誇りや文化的アイデンティティを持って生きる重要な役割を果たしました。こうした経験は、その後のカンボジア国内での教育文化支援の基盤となりました。
1980年代後半になると、ベルリンの壁が壊され、ソ連の崩壊とともに東西冷戦構造が崩れ、国際社会ではカンボジア和平への動きが加速しました。一方、カンボジア国内は長年の内戦により国家財政は疲弊し、ソ連をはじめとする東側諸国からの援助も縮小したため、教育や文化の復興に充てる予算はほとんどありませんでした。

(右が印刷訓練棟、左が縫製・電気等の訓練棟)
1991年3月、SVAはプノンペン事務所を開設。同年10月23日にパリ和平協定が締結され、翌年3月には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動を開始しました。1993年5月に制憲議会選挙が実施され、9月には新政府が誕生しました。
しかし、この時代の社会は決して安定していたわけではありません。カンボジアは世界最貧国の一つで、国民のほとんどが絶対的な貧困ライン以下の生活を強いられていました。そこにUNTACが展開し、ドルの大量流入による急激なインフレ、貧富の格差の拡大、不安定な政治体制など、多くの課題を抱えていました。教育施設や文化施設も深刻な不足が続き、校舎、教科書や図書、教師など、あらゆる資源が不足していました。
SVAは、こうした状況の中で、難民キャンプでの経験を生かして、単なる物資支援ではなく、人材育成と教育・文化基盤の再建を中心にした活動を開始しました。
まず1991年、SVAはプノンペン市教育局と協力し、日本カンボジア友好職業訓練所の建設を始めました。翌年には印刷専門家による人材育成が始まり、出版活動を開始しました。
同年には、仏教復興を支える出版活動も始まり、失われた宗教文化の再生に貢献し、さらに1993年からは絵本出版や移動図書館事業を開始し、子どもたちへ本を届ける活動を本格化しました。また、1992年にはバッタンバン州で窯業訓練センター事業を開始し、伝統的な職業訓練による生活と文化の再建支援活動を始めました。1991年末からは学校建設支援にも着手し、教育環境の整備を進めました。
難民キャンプで培われたSVAの教育文化支援活動の理念は、内戦から和平、復興の道を歩み始めたカンボジア国内の活動に継承され、教育・文化の復興を支える重要な基盤となりました。
シャンティ国際ボランティア会専門アドバイザー 手束耕治
シャンティ国際ボランティア会
〒160-0015 東京都新宿区大京町31 慈母会館2·3階



